ほうちゃんらぶの記録

記事を追加する予定はないです

世にも奇妙な人生 ー東大から学芸へー

どうしてこんな人生になったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。

中学受験をしてトップクラスの進学校に入り、現役で東大に合格。しかし1年生で留年し、その後もギリギリの学生生活を続け、4年生で2度留年して後がなくなった。

そんな僕は在学年限である今年、東大を卒業する。同時に東京学芸大学に合格し、来年度から再び大学生になる。なかなかに類を見ない人生だと思う。誰の何の足しになるかはわからないけど、なんとなくこの数奇な人生を人に知ってもらいたくなった。暇な人は読んでくれると嬉しい。こんなもの推敲してもしょうがないので、思うがままに書き殴っていこうと思う。

分量がかなりあるので、物語だとでも思ってほしい。

目次

・原点

・周りに作り上げられた自分

・膨らむ夢と、人生最大の選択ミス

・やっていけるわけないよね

・選択肢のない人生

・院試に勝てない

・本当にやるべきこと

・これはこれでよかったなんて言えない

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・原点

僕の根幹にあるのは「教師になりたい」という思いだ。これだけは小学生のころから自分の中でずっと変わらない。

そんなに優秀だったわけではなかった。ちょっと計算は得意だったが、「太陽はどっちの方角から昇る?」と訊かれ、堂々と「西!」と答えるような子だった。

しかし、3年生の時に転機が訪れる。

ある日郵便受けを見ると、塾のオープンテストのチラシが届いた。『賞品がゲームソフト』ということに惹かれ、受けに行くことになった。

当時の自分としては衝撃の体験だった。端的に言うなら、問題がとても面白かったのである。

もともとそこまで学校の勉強が嫌いだったわけではなかったが、このオープンテストの算数の問題は今までどこか退屈に感じていた部分のあった学校の算数とは大きく異なっていた。

中学受験塾に通っていた経験がある方には理解してもらえると思うが、このくらいの学年の算数はパズルのような問題が多い。このパズルが、自分とは無縁なはずだった中学受験への導き手になったのだった。

塾に入りたいという僕の希望に、両親は最初は反対した。僕に続けられるのかと。両親間の「中学受験はしないよね」という相談の上でマイホームを買った矢先だったというのもあったのだろう。正直はっきりとは覚えていないが、だいぶ強く懇願してしぶしぶ了承してもらった記憶がある。もっとも、親はこのとき「そのうち飽きてやめるだろう」と思っていたらしいが。

なんにせよ小4の4月から塾に通い始めることになった。これが僕の人生を大きく変えたと思う。

小学校はつまらなかった。学校の授業は塾に比べるとのんびりで退屈だった。6年間のうち丸5年以上はいわゆるいじめを受けていた。僕はとてつもなくうるさかったし、今思い返せば自分にも非はあった。しかし、当時の自分からしたら理不尽な仕打ちを受け続けるだけの生活だった。何度か一日だけの不登校をした。

塾は楽しかった。授業はどれも面白かった。新しいことをたくさん知れるのが楽しかった。いろんな問題が解けるようになっていくのが楽しかった。友達と普通に話せることが楽しかった。小学校が嫌いだったことでより塾に逃避することになった。

塾の先生をとても尊敬していた。そのうち、「こんな風になりたい」と思うようになった。こんな面白い授業をしたくなった。こんな楽しい勉強を教えたくなった。この思いは日に日に強くなっていった。これが今の僕の一番の原点だ。

そのまま中学受験をしたいと思うようになった。うちの小学校はほとんどの子がすぐ隣にある中学に進学する。それを想像すると本当に嫌だった。他にも姉経由で内申点が厳しいということがわかったり、勉強の内容もあまり期待できなかったりといった理由が重なって、公立への進学をする気にはなれなかった。その分私立の新しい環境に大いに期待していた。

親は反対した。これもかなり反対を押し切って受験することになったと記憶している。

あの頃が一番勉強が好きだったのは間違いないだろう。今振り返ると若干の気持ち悪さすら覚えてしまう。もちろん周りに自分より勉強している子はたくさんいたとは思うが、全受験生の平均程度は頑張って勉強していたと思う。

そのおかげか、入塾から受験まで成績は比較的順調に伸びていき、第一志望には十分合格できる程度になっていた。もっとも、好きで得意な算数で稼いでいた部分が大きく、国語はそこそこ悲惨な状況だった。高校や大学の受験でも、数学が鍵とよく言われると思うが、中学受験の算数にもしばしば当てはまるものだったと思う。算数少年になったことが功を奏し、受験は無事成功した。ちなみに第一志望の翌日の滑り止め受験の行きに、たくさん答え合わせをしたのでたくさん間違いが発覚した。受かったので良し。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・周りに作り上げられた自分

中学生になった。入学式の日、敷地内の桜がとてつもなく綺麗だったことを覚えている。

中高6年間は本当に楽しかった。放課後、教師に追い出されるまで毎日のようにクラスメイトと野球などをして遊んでいた。高校生になってもバカなことをしまくれる仲間がいた。男子校だったのだが、そこに全く不満はなかった。部活や同好会にも自分なりに打ち込むことができた。

教師にも恵まれた。上位の進学校でも、各々塾に通う前提のような授業をするところもある。それに対して母校はよく「予備校いらず」と言われるほど授業が手厚く、特に高3ではただ問題の解説ではなくそこから一般的なアプローチを見出す授業をしてくれた。思い返すとこの手厚い授業が落とし穴でもあったのだが。

しかし、この中高生活は2つの大きな遺恨を残すことになる。

1つは自己評価の低下だった。小学校時代のようにいじめられることはなくなったのだが、学校での立場はとても低かった。うるさかったり、授業態度などの素行が悪かったりで悪目立ちしており、生徒や教師の笑い者にされることが多かった。それ自体で不快になることは少なかったのだが、「自分はダメだ」という意識を増強させるには十分であった(実際ダメなのだが)。実際周りの人間のレベルが高かったことは事実だし、自分がダメ人間なこと自体は間違いないと思うのだが、肯定される体験がなさすぎて、自分の良いところの存在を認められなくなっていたのである。

もう1つは、自習をする力だった。僕は中学受験塾時代は成績が良く、中高では順調に低下したものの致命的に授業についていけないということはなかった。それは自分が「勉強ができる」人だったからではない。「懇切丁寧に教えて貰えば理解ができる」「理解したことをアウトプットできる」といった能力があったからだと考えている。恵まれた環境で成績を伸ばすには、これで十分だった。高3で塾にこそ少し通ったが、そこから新しいことを学ぶということはほとんどなかった。学校の授業に依存する、という方法が自分の成功体験だったのだ。まあこんな人間が大学に入ったらどうなるか、わりと想像がつくだろう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・膨らむ夢と、人生最大の選択ミス

先述の通り、中高で非常に良質な授業を受けた僕の夢は「塾講師」から「中高教員」に変わっていった。単純に生徒といられる時間が長いということや、職として安定しそうといったことが理由だったと思う。

とにかく「教えることを仕事にしたい」という思いは、クラスメイトに教える体験なども通じて日に日に増していった。分からないものが分かるようになって、曇っていた表情が晴れやかになる。その瞬間を見るのがこの上なく好きだ。そのために教員になりたい。逆に、それ以外の職業に就く自分を一切想像できなくなっていた。

そして、進路を考える。中高の教師から、「私立教員は教育学部卒を取らないところもある」というふうにきいていたこともあり、教育学部は考えていなかった。

数学の教員になるつもりだったので、基本的には数学科を目指すことにした。オープンキャンパスなども踏まえ、高2の夏頃から横浜国立大学を第一志望にしていた。ちなみに東大のオープンキャンパスは遠くて面倒だし、あまり興味もなかったので行かなかった。

模試の成績を見る限りは、横国に入るのは問題なさそうだった。一応書いていた東大はB〜D判定くらいだった。

高3の頃、教員や両親に「もう少し上を目指さないか?」という提案を受けた。妥当な提案だろう。僕は迷った。教員になるだけだったら横国が一番良いと考えていた。

東大は教員になるための大学じゃない。説明会に行って「教員になりたいんです」と言ったら「教員ならうちじゃなくても…」と言われた、そんな大学だ。しかし、教員以外の道を目指したくなった時のことを考えると、東大に入れるに越したことはないのかなと思った。横国の後期の問題がその時点で十分解けそうだったこともあり、前期は東大を受けることにした。ちなみに東工大は致命的に苦手な理科が重視されているのでまず受からないだろうと思っていた。

受験勉強のモチベーションはなかなか上がらなかった。

失礼な話だろうが、自分にとって東大はある種の"保険"に過ぎなかったのだ。受からなくても横国に行ければそれはそれで問題ない。そう考えると、学歴にあまり興味がなかった僕は全力で頑張ろうとは思えなかった。

その中で「いかに勉強時間を少なくして受かる可能性を残せるか」ということはよく考えていた。運が良ければ受かるくらいを目標に、最小限の努力にとどめることを目指した。勉強量に対して安定して点が取れると考え、古典をまず完成させた。積み重ねが物を言う英語は、維持できればいいくらいの気持ちだった。化学はセンターレベルでも二次である程度点が取れると思っており、それ以上が大変だと感じたのでセンター対策に留めた。自発的な二次の勉強は一切していない。物理は最後まで困っていたが、センターが終わった後に高1,2年用の教材で基礎を勉強し、なんとか克服した。数学は学校の宿題も多く、放っておいてもある程度演習するのであまり気にしていなかった。勉強をするのは嫌いだったが、受験勉強の戦略を考えることは少し面白く感じていた。

同級生などは、僕がお世辞にも受験勉強を頑張ってはいなかったことを知っているだろう。彼らから見たらムカつく野郎だったかもしれない。実際高校の選抜クラスの教室には近づきたくなかった。非選抜クラスで怠惰な噂ばかり聞く奴が、模試だとたまに成績が良いということなどから、一部で目の敵にされているような感覚があったのだ。

かくして、受験は不合格はなく、東京大学理科Ⅰ類に入ることになった。センター国語で源氏物語やら筍やろアハハハハオホホホホみたいなやつやらに殺されるなどのハプニングはあったが、二次の数学の出題と相性が良かったのもあり、ギリギリ合格した。

嬉しかったといえば嬉しかったが、中学受験の合格に比べると明らかに劣っていた。勉強量も、志望校への熱意も明らかに劣っていたのだから当然だ。自分なんかがこんなところでやっていけるのか、という不安は大きかった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・やっていけるわけないよね

東大に来るべきではなかった。少なくとも表面的にはそう思う結果になった。

自宅からキャンパスは遠かった。授業はよく分からなかった。友達もたくさんはできなかった。そのうち、聞いても分からない授業に行くことが億劫になった。そんな不真面目な奴を介護してくれるほどの友人もほぼいなかった。大学へ行く回数はみるみる減っていった。

気が合う人も少なかった。大学生になって、本格的にTwitterをやり始めたので、東大生とのつながりもできた。しかし、正直ある程度以上に仲良くなりたいと思える人は多くなかった。いろいろな理由はあるが、人種が違うなと思ってしまったというのが正しいだろうか。

サークルで競技かるたを頑張った。この競技は本当に面白いし大好きだ。今でもやりたいと思う。ただ、人間関係があまりうまく行かず、これも1年半ほどで行かなくなってしまった。執行代を投げ出した最低な奴として認識されていると思うと、なおのこと戻れなかった。

恋愛もしたが、なかなか酷い目にあった。まあ簡単に話すなら、散々振り回されたあげく、この世で一番嫌いな男に乗り換えられて終わった。幻滅しすぎて未練などは一瞬でなくなったが。

唯一の希望の光が音楽ゲーム、通称音ゲーだった。高校時代から細々とやっていたが、大学生になってサークルにも入り、だんだん没頭していった。ただ、最初の1年はそこまでコミットしていなかったので、まだ孤独感は拭えなかった。

バイトも悪くなかった。周りの環境が特殊だった自覚があったので、世間知らずになりたくなくて色々なバイトをしようと思っていた。東大生にありがちな、家庭教師や塾講師に囚われたくはなかった。実際、様々な人に出会い、様々なことを学べた。自分の無能を痛感する場面が非常に多くて辛かったが、人生の大きな糧になったのは間違いない。

このような大学生活の中で、1年夏学期でいくつか単位を落とした。絶望的というほどではなかったが、留年の可能性はある結果だった。

秋学期にはそもそも大学に行かず、行っても食堂でダラダラして出席しなかったりしていた。大学にも、その生徒にも、関わる気はなくなっていった。なんでこの大学に来たんだろうと思った。

冬に、再受験ということを考えた。しかしこの時ほど浅はかだったことはないと思う。動機は東大からの逃避だけだった。センターの出願も終わっており、なら私立で、なんとなく現役でも受けた慶應で、という感じだった。最悪である。無駄に親に懇願し、出願。しかし、父親に「入学金は払わない」と言われてしまい、受けることをやめた。これに関しては本当に自分が悪かった。あの時親に拒否してもらえて本当に助かったと思う。

もっとも、再受験を想定していたために授業に全く行かず、課題もやっていなかった。東大に俗に言う進振りという制度があるのは知っている人も多いだろう。実は本来一度落とした必修を取り直すと点数に上限がついてしまう。しかし、留年した場合この上限はない。他にも来年取り直すメリットが多くあったため、ほとんどの単位をあえて落とした。第二外国語だけはまたやるのは嫌だったのでなんとかとった。実験の単位は落とそうとしたのに何故かギリギリ単位が来てしまうという最悪の結果になったりした。

かくして僕は、1度目の留年をした。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・選択肢のない人生

大学2年目以降は、音ゲーに打ち込むことになる。サークルにもコミットし始め、そこの仲間と交流し、たくさんの刺激をもらった。バイトをたくさんし、たくさんゲーセンに行くようになった。

この生活は、僕を救ってくれた。サークルの人たちとはとても気が合い、仲良くなることができた。音ゲーの話をするのも、そうでない話をするのも、馬鹿みたいなことをして遊ぶのも楽しい、最高の仲間ができた。孤独を脱することができた。このサークルにはいくら感謝してもしきれない。

さて、精神衛生が良くなり、東大で頑張っていく気持ちにはなれたものの、分からない授業に行きたくないという気持ちは変わらなかった。中高時代に自分が受けたような、丁寧な授業をしてくれる教授は滅多にいない。彼らは教えることが仕事ではなく、研究が仕事なのだ。その上日本最高学府、レベルが高い。授業におんぶに抱っこだった自分が学ぶにはあまりに良くない環境だった。大学の勉強は数学を含めほとんど面白いと思えなかった。

そんな中、一つだけ興味があったのは心理学だった。進振りでは、心理系に進むかずっと迷っていた。

しかし、数学の教員免許を取るためには、教育課程の科目が開講されている学部学科でなければ茨の道である。これを鑑みると、数学に関してはほとんど候補がない。当然点数もないとなると、行ける場所は1つしかなかった。

教養学部統合自然科学科である。

この何やってるかよくわからない学科は、広く浅く授業を開講しており、もはや特に極めたいことがない自分にとっては都合が良かった。必要単位数も少なく、僕でもなんとかなるかもしれないと思っていた。

しかし結局、4年生まで常にギリギリで進級し続けた。教職科目も取らなければいけなかったが、まず進級しなければと思うと遅々として進まなかった。教育実習など入れようがなかった。

学科でも、友達はあまりできなかった。元々社交性に欠けるところもあり、大学にもなかなか行かないのだから当たり前だ。僕には音ゲーサークル以外居場所がなかった。

3年生では必修の実験があるのだが、夏学期は提出したレポートでは単位をあげられないと言われ、呼び出された。出してないレポートがある人はたくさんいたが、全て出したのに呼び出されたのは自分だけだった。

結局、最悪な追加課題とレポートの再提出を課せられ、かなり精神的に荒れた。なんとか完遂し、単位をもらうことができたが、秋学期の実験では夏学期の経験から「とりあえずレポートを出す」ということができなかった。見えないハードルがどれだけかわからない、人に頼る勇気もない。僕はこの実験の単位を落とし、システム上次年度には卒業できないことが確定した。

4年生になり、研究室に配属された。できるなら心理学や行動学をやりたいと考えていた僕は、同学科の動物行動学の研究室に配属してもらうことができた。

しかし、研究生活で僕は精神不安定になっていった。教授が怖くて仕方がなく、研究室に行くのが辛かった。ラットには週6で餌をあげなければいけないなどの世話が必要だったが、それも苦痛に感じるようになっていた。当時キャンパスの目と鼻の先に住んでいたのにも関わらず、だ。

こんなことで音を上げるなんて、僕はとても弱い人間だと感じた。いや元から死ぬほど誘惑に弱いしろくに努力もできてないしわかりきってたことなんだけど。

この年で卒業できないとわかり切っていたので院試は出願しなかった。しかしこの夏学期はボロボロ。研究室からも失踪した。研究室の方には迷惑をかけまくってしまい、本当に申し訳なかった。

秋学期にはバイトに明け暮れた。音ゲーに逃げたかったからだ。授業にもほとんど行かず、週6でバイトをしていた。実験はレポートだけで良かったのだが、それすら手をつけられなかった。申し訳程度に単位を取り、2度目の4年生になった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・院試に勝てない

2度目の4年生で最優先すべき事項は、夏学期に卒論参加要件を満たすことだった。そのためには実験のレポートを出し、それなりの単位数を取る必要があった。

今まで何をしていたんだという感じだが、前年は研究に殺されたり大学から逃げていたりだし、そもそもほとんど人に頼ることができないという状況は悪化していた。人に何か助けてもらえる水準にまですら自分を持っていくことができなかった。自学自習という条件下では、僕の学力は世間平均に満たないくらいなのだと思う。

そして、もう一つやらなければいけないことがあった。

院試である。

教員免許には一種と専修があり、専修免許は大学院を卒業しないと得られない。それに加えこのときは、「数学教員になるのに数学から逃げてはいけない」と考えていた。そのため、理学部数学科の研究室を志望した。幸い必修のセミナーでご縁があった先生の生物数学という分野にわりと興味が持てていた。保険として自学科の、こちらも比較的興味が持てるかつ緩めのスポーツ科学の研究室も併願した。

結果は散々だった。

併願先の院試は7月中旬で、期末真っ只中だった。この条件はみんな一緒なのだが、いかんせんここで卒論要件を満たさないと合格しても無意味だったので、リソースの割き方が難しかった。本番、なんとかまあまあできたかなと思っていたが、結果は不合格。受験の類で初めて「失敗した」と思った。

卒研の配属先はこの併願した研究室だったので、「なんで落ちたんですか」って訊こうかとも思ったが、最後まで勇気が出ず、やめた。

8月下旬には本命の院試。分かっていたことだが険しい道だった。

僕は大学の数学を基礎すらまともにできていない。その状態で、学科に入ってからも数学をやり続けてきた数学科の人たちと戦わなくてはいけない。並大抵の努力では受からないだろう。

頑張らなかったとは言わない。ここ数年の自分を考えれば頑張った方ではあるだろう。ただ、とてもじゃないが院試に合格できるほどではなかった。

独学での勉強は遅々として進まなかった。結局1日目の基礎科目は受けたが、2日目の専門科目は全く取れると思えるまで勉強できず、受けに行かなかった。発表も見に行かなかった。

あまり関係ないが院試2日前に彼女と別れるというなかなかパンチの効いたエピソードもあったりする。

こうして、初めての院試が終わった。と思っていた。

そんな中、横国の大学院が二次募集をしているという話を知った。そこにはグラフ理論という比較的頑張れそうな分野の研究室があり、藁にもすがる思いで出願した。専門科目の試験は問題なく解けそうに見えた。

しかし、問題は英語だった。

出願を決めたのがギリギリだったため、TOEICを受けることができなかった。代わりにTOEFL iBTを受けることになった。英語が苦手な自分にとって、この試験は最悪だった。さまざまな技能が問われ、誤魔化すことができない。生半可な対策で太刀打ちできる試験ではなかった。とんでもない点数を叩き出し、またしても院試に落ちてしまった。ここで本当にこの年度の因子が終わった。

実験レポート含め、ギリギリ卒論要件を満たしたので、秋学期は卒業研究をすることになった。バイオメカニクスといって、人間の運動をマクロに力学的に研究する分野で研究することになった。これは比較的楽しかった。もちろん研究などには向いていないし、モチベも能力も高くなかったので苦労はした。それでもなんとか無事発表までやり切ることができた。この環境にはとても感謝している。

しかし、自分には卒研が限界だった。本来は並行して単位を取らないと卒業できない状況だったが、卒研以外の単位を取ることはできなかった。

こうして、3度目の4年生になることが決まった。東大の制度では、もう留年はできない。卒業か放校かしか残されていなかった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・本当にやるべきこと

今年度初頭、コロナウイルスの感染拡大に伴い、生活は大きく変容した。外出自粛、授業のオンライン化などである。

これにより、授業の出席へのハードルは下がった。そもそも他にやれることも多くないので、自然と授業に出席するようになった。もっとも、内容は全然理解できていなかったが。

しかし、長くは持たなかった。オンラインですら出席できなくなっており、課題にも手がつかなくなっていった。なぜかはわからない。自粛生活の閉塞感によるものなのかもしれない。どうしようもなく怠惰なだけかもしれない。どうせ秋学期にしか取れない単位を残していたせいもあったかもしれない。結果、秋学期に8単位も残してしまった。

今年度は「教員の専修免許をとりたい」という目的だけで院試に出願した。研究に対するモチベーションはほぼなかった。

受けたのは前年度の併願先で、卒研の配属先でもあったスポーツ科学の研究室である。今回コロナの影響で筆記試験はなし。代わりにA4で2枚以内の研究報告書を提出して面接、だった。僕はすでに卒研を終えていたので、この報告書を書くのは難しくなかった。卒論の要旨を少し手直しして提出した。

しかし、なんと面接まで行くことができなかった。通過者の受験番号一覧を見るに、書類で落ちているのはかなり少数派であった。

絶望した。試験がもう少しできれば、といったこととは訳が違う。自分としてはどうすれば良かったのか全くわからないのだ。自分のできることはほぼ最大限したつもりだったのだから。単位の成績を見られてのことかもしれない。自分の状況が教授に知られてしまってのことかもしれない。どれだとしても途方に暮れてしまうものだった。

院に行かなくてはいけない。昨年同様二次募集がある場所はないかと探した。そこで、気づいたのである。

今の自分は、大学院に入っても卒業できないのではないだろうか?

学部の勉強ですらこれだけ苦労した自分が、研究などやっていけるのだろうか?教職科目もまだ山ほど残っていて、教育実習もある。研究と教職の両立なんてできるのか?普通の学部生活と教職の両立すらできなかった、自分が。

冷静に見つめ直した結果、僕は「不可能」だと判断した。

僕にとって、教員免許が取れないなら何も意味がない。それだけが僕の中で唯一変わらないものだった。この紆余曲折の大学生活の中、本当に変わらなかった自分の夢。それをなによりも最優先すべきだということに思い至った。

では一種免許を取るとして、どうするのか?東大にはもういられない。他大の大学院でも研究と並行しなければいけないのは変わらない。残された道は一つしかなかった。

大学への再入学だ。

前から薄々気づいていた。これが自分にとって最善の方法だと。しかし、学費を出してもらえるわけがない、論外だと選択肢から外していた。

でももう本当に自分に残された道がここしかなかった。もう教育以外のことにリソースを割きたくなかった。

だから僕は教育学部を選んだ。就ける先の選択肢は狭まるかもしれない。それでも教員になれないことに比べれば何倍も、何億倍も良いことだった。

教育を学ぶことだけを考えたい、その思いから東京学芸大学を選んだ。

ここには教育学部しかない。専門学校に近いとも言えるだろう。ある程度東大で取った教職単位の持ち込みはできるが、ものによってはそれも学び直したいと思った。まず進級しなければ、まず卒業しなければと思いながら受けた教職の授業は、身が入っていないものも多かったからだ。教職と並行して東大のカリキュラムをこなせるほど頑張れなかった。

母親はすぐ納得してくれた。できるなら僕にとって最善の選択だということを理解してくれた。

父親を説得するのは大変だった。ただでさえ留年で散々学費を使わせてるんだから当たり前だ。それでも僕は、大学院に払うよりはプラスだと思っている。最終的には、いくつかの条件付きで再受験を認めてくれた。

あとは卒業しながら入試に合格すること。

正直な話入試に対してはかなり気楽に臨むことができた。学力的に足りてはいるだろうということや、最悪卒業さえしてしまえば入試は来年でも受けられる、と考えられたことがあったからだ。

TLを見る時間だけでも減らそうと思い、Twitterから離れるようにはした。

1月の授業で期末レポートが出されたのに、提出期限が共通テストの当日だった件はマジで教授許さんって呪詛を唱えていた。優くれたので許した。

さまざまな人の助けもあり、卒業は無事確定させることができた。みんな本当にありがとう。こんなどうしようもない自分に手を差し伸べてくれる人は、全員聖人と言って良い。誰か彼らに感謝状をあげてください。

入試にも無事合格できた。共通テストが現役の時より良く、かなり精神に余裕が持てた。正直この出来には驚いている。直前の演習でセンターパックの社会で40点台を叩き出したときには人生これまでと思っていた。

こうして、長い長い回り道をして、来年度から再び大学生として教職に向けて励むことになる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・これはこれでよかったなんて言えない

東大に来たのは間違いだったのだろうか。それは誰にもわからない。もしかしたらどこの大学に行っても似たようなことになっていたのかもしれない。これから先また何かに行手を阻まれてしまうかもしれない。

僕は正直間違いだったと思う。

自学自習という観点で言えば、怠惰な人間ということも含めめ圧倒的に能力不足だった。「やればできる」と言われるかもしれないが、「やれないからできない」のだ。これを甘えだと思う人はたくさんいると思うが、努力ができることは一つの才能だと思う。僕にはできない。

そんな中で信じなければならなかったのは、「教員にになりたい」という自分の意志だった。これだけが自分の中でブレないものだと、この7年で何度も痛感した。保険として東大を受けようとしなければ、また違った未来があっただろうと思わずにはいられない。

しかし、東大に来なければ得られなかったものもあったのは事実だ。

その中でも一番大きいのは音ゲーサークルの仲間だ。これはおそらく東大に来なければ得られなかった。本当に楽しい時間をたくさんもらっている。時間を含め多くのものを失ったけれど、この環境に出会えたことだけでも東大に来てよかったと思うには十分なのかもしれない。

それでもぼくは「これはこれでよかった」なんて口が裂けても言えない。言いたくない。致命的な過ちをおかしたという認識は揺るがない。

もしこれから受験をするような人が見ていたら、自分の学力やモチベーションが大学に入ってからどれほど通用するものなのか、少しだけ考えてみてほしい。他者に教えてもらうことで培ってきたのであれば、特に東京大学では厳しい学業生活を強いられるかもしれない。僕が特殊なだけかもしれないが。

改めて、来年から大学生活を頑張ろうと思う。なんというか、人生リセットボタンを使ったような、そんな心持ちだ。

もうこれ以上ループはしたくないかな。

おわり